
博士
今回は難問・戦国武将クイズを紹介するぞ!選択肢の中から正しいと思うものを選ぶのじゃ!
【戦国武将クイズ】難問・激ムズ問題!戦国時代の面白い3択問題【前半10問】


博士
まずは10問出題するぞぉ!全問正解目指して頑張るのじゃ。
第1問
織田信長が生まれたのは現在のどの都道府県でしょうか?
1.岐阜県
2.滋賀県
3.愛知県
4.山梨県
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3.愛知県
信長が生まれたのは現在の愛知県西部・名古屋市などがある地域で、当時は尾張と呼ばれていました。
織田信秀という父から生まれ、子供のころは吉法師と呼ばれていました。
18歳で父 信秀が亡くなって後を継いだ信長は、当時「大うつけ者」と呼ばれていましたが、教育係であった家臣 平手政秀が自分の命をかけて説得し、心を入れ替えて織田家を強く大きくしていくことを決意しました。
第2問
乱世の戦国時代に戦国武将として初めて天下を統一したのは誰でしょうか?
1.豊臣秀吉
2.織田信長
3.徳川家康
4.足利尊氏
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3.徳川家康
秀吉は明智光秀に暗殺された織田信長の後を継ぎ、武将から関白となることで日本を治める立場となり、日本を統一したとも言えます。
しかし、征夷大将軍として正式に認められて江戸幕府を開いた家康が、武将として初めて統一したと言えるでしょう。
第3問
騎馬隊で有名な武田信玄と何度も戦った、越後(今の新潟県)の武将は誰でしょうか?
1.上杉謙信
2.最上義光
3.上杉鷹山
4.南部信直
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1.上杉謙信
上杉謙信は信玄と長らくライバル関係と言われ、有名な川中島の戦いを繰り広げていましたが、戦っているうちにお互いを認め、尊敬し合う仲になっていたとも言います。
その証拠に信玄は亡くなる前に、息子勝頼に自分の死後は謙信を信頼して和睦しなさいと伝えたと言われています。
第4問
独眼竜と言われた、片目の見えない東北の武将は誰でしょうか?
1.伊達政宗
2.真田幸村
3.水戸光圀
4.徳川吉宗
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1.伊達政宗
政宗は出羽国米沢(現在の山形県米沢市)で、古くからの名家 伊達家に生まれました。
政宗が右目を失明したのは、天然痘という病気が原因だとされています。
現在はワクチンが開発され流行することはありませんが、以前は大変な後遺症の残る大病でした。
第5問
若い頃の豊臣秀吉が、日常のある行動を主君である織田信長に褒められたことから出世していきました。
秀吉がした行動とは何でしょう?
1.信長の刀の手入れをしていた
2.お気に入りのお菓子を贈った
3.信長の馬の訓練をしていた
4.ぞうりを温めていた
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4.ぞうりを温めていた
雪の降る冬の寒い日に信長と外出した秀吉は、信長が建物に入り用事を済ませている間、信長のぞうりをお腹に入れ温めていました。
そして、信長が帰ってきたところに温めておいたぞうりを差し出し、気が利くやつだと信長に気に入られたのでした。
第6問
「風林火山」という旗印が有名な武将は誰でしょうか?
1.武田信玄
2.真田幸村
3.前田慶次
4.織田信長
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1.武田信玄
「風林火山」とは、「はやきこと風のごとく、しずかなること林のごとく、侵掠すること火のごとく、動かざること山のごとし」の略です。
中国の軍師「孫子」の句が元ネタになっています。
第7問
豊臣秀吉が生まれたのは現在のどの都道府県でしょうか?
1.大阪府
2.奈良県
3.滋賀県
4.愛知県
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4.愛知県
秀吉は尾張の国・現在の愛知県名古屋市で農民の子として生まれたと言われています。
しかし、元々秀吉の父は織田信長の父・信秀の軍で足軽をしていたことや、秀吉の母は商人の家に生まれていたということもわかっており、本当のところはわかっていません。
幼い頃の名前は日吉丸でしたが、後に木下藤吉郎→羽柴秀吉→豊臣秀吉と改名して行きます。
第8問
徳川家康が生まれたのは現在のどの都道府県でしょうか?
1.東京都
2.愛知県
3.京都府
4.北海道
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2.愛知県
家康は三河国・現在の愛知県西部、岡崎市のあたりで松平家の長男として生まれました。
幼い頃は竹千代という名前でしたが、当時の松平家は西の織田家と東の今川家に挟まれており、いつどちらかから攻められてもおかしく有りませんでした。
家康の父 松平広忠は織田軍に攻められたときに今川軍に助けを求め、その代わりに家康を人質として今川軍に差し出したため、家康は幼い時期をほとんど人質として過ごしました。
第9問
戦国時代は平均寿命50年と言われていましたが、そんな中、徳川家康は75歳まで生きとても長生きしました。
では、徳川家康が亡くなった理由は何だったでしょうか?
1.インフルエンザ
2.心臓発作
3.がん
4.肺炎
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3.がん
家康は健康マニアだったと考えられています。
年を取ってからもバランスの良い食事や鷹狩で運動不足解消など、体のメンテナンスをしっかりしていました。
家康はこの鷹狩のときに食べる天ぷら(今でいうと唐揚げのようなもの)を大変気に入っていました。油の多い天ぷらを食べたことで体調を崩した家康は、そのまま寝込んでしまい、元気になることなく亡くなったことから、天ぷらが直接の死因と言われることがあります。
しかし、鷹狩の天ぷらから数カ月後に亡くなっていることから、元々隠れていた胃がんが悪化して亡くなったと考えられています。
第10問
戦国時代に中国地方を治めた毛利元就は、自分の子供たち1人1人を矢に例えて、一本ではかんたんに折れてしまう矢も兄弟全員で束になって力を合わせれば折れることはないと教えました。
では、この場面で登場する兄弟(子供)は何人だったでしょうか?
1.2人
2.3人
3.4人
4.5人
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2.3人
元就は、移り変わりの激しい戦国時代を子どもたちに生き抜いてもらいたかったため、3人兄弟が協力して色々な問題を解決し、乗り越えて欲しいと考え、このように教えました。
「三矢の訓」として現在でも語り継がれています。
【戦国武将クイズ】難問・激ムズ問題!戦国時代の面白い3択問題【後半10問】


博士
前半10問はどうじゃったかのう?まだ物足りないという人は次の10問も挑戦してみるのじゃ!
第11問
織田信長が日本で初めて戦いに取り入れて成果を挙げた部隊はなんでしょうか?
1.鉄砲部隊
2.弓兵部隊
3.投石機部隊
4.槍兵部隊
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1.鉄砲部隊
1575年に起こった「長篠の戦い」で、織田・徳川連合軍が武田軍に対して鉄砲隊を率いて戦いました。
こうして織田・徳川連合軍は、とても強いことで有名だった武田騎馬隊を破りました。
第12問
日本で初めて鉛筆を使ったと言われる戦国武将は誰でしょうか?
1.真田幸村
2.直江兼続
3.本多忠勝
4.徳川家康
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4.徳川家康
鉛筆は外国で発明・普及したもので、老字の日本では筆のほうが主流でした。
家康は外国からおくられたものを使っていたと考えられており、実際に家康が使っていた鉛筆が現在も残っています。
この鉛筆は久能山東照宮の博物館に保管されていおり、今残っている日本最古の鉛筆と言われています。
第13問
豊臣秀吉は戦国時代までで一番大きなお花見大会を開きました。
何人が集まったでしょうか?
1.50人
2.500人
3.5000人
4.50000人
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3.5000人
この最大のお花見は吉野という場所で行われていたため、「吉野の花見」と呼ばれています。
この地名は桜のソメイヨシノの語源ともなった桜の名所でした。
第14問
戦国時代ごろから外国からの人や物がたくさん日本に入ってきました。
戦国武将の中で、キリスト教を認めて受け入れたのは誰でしょうか?
1.今川義元
2.織田信長
3.毛利元就
4.豊臣秀吉
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2.織田信長
織田信長はキリスト教を受け入れましたが、キリスト教を信じていたわけではありません。
当時、大変大きな力を持っていた仏教のお寺に対抗する・力を減らすためにキリスト教を認めたと考えられています。
第15問
豊臣秀吉はその見た目から、主君である信長からどんな「あだ名」で呼ばれていたでしょうか?
1.ウマ
2.サル
3.イヌ
4.ネコ
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2.サル
秀吉は信長に使える前は農民の子・木下藤吉郎として生きていましたが、信長に認められ羽柴秀吉と名乗り武将となりました。
幼少期から武将となった後まで、長らくその見た目からサルと呼ばれていたようです。
第16問
相手に有利な状況を与える意味のことわざで「敵に塩を送る」があります。
この諺の由来ともなった、戦国時代に実際に敵に塩を送った武将は誰でしょうか?
1.上杉謙信
2.毛利元就
3.上杉景虎
4.長宗我部元親
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1.上杉謙信
謙信は、武田信玄軍との戦の最中に武田軍が塩不足になっていることを知り、正々堂々実力で勝負を決めるべきだと言い、武田軍に塩を送って戦いを続けました。
第17問
長篠の戦いで織田信長が武田軍と戦ったとき、信長軍が揃えた鉄砲の数は何丁だったでしょうか?
1.30丁
2.300丁
3.3000丁
4.30000丁
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3.3000丁
当時の鉄砲「火縄銃」は弾を込めて撃つことができるまでに時間がかかるため、状況がどんどん変化する戦には不向きと言われていました。
しかし、信長は鉄砲隊を3部隊に分けて1000丁ずつ鉄砲を持たせ、順番に撃つ→弾込め→待機→撃つという風に交代していくことで、弾を込める時間の空白を無くして、武田軍に勝利しました。
第18問
織田信長の家臣で、信長を裏切り本能寺で信長を暗殺した武将は誰でしょうか?
1.斎藤道三
2.浅井長政
3.明智光秀
4.柴田勝家
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3.明智光秀
信長は本能寺で光秀に裏切られたと知ったとき、「是非におよばず」と言って逃げることを諦めました。
信長は光秀の実力を信頼し出世させてきた本人だったので、光秀が逃げ道を残すはずがないとわかったため、その場に残り戦い、最期には切腹したと言われています。
第19問
織田信長は美濃(今の岐阜県)の齋藤軍を攻めるとき、攻めるのが難しい稲葉山城を攻めるためには敵陣のすぐ近くに一晩で城を作り、敵の準備が整わない間に攻めるしかないと考えました。
織田は家臣に城作りの命令を出しましたが、この命令を受けて見事城をつくりあげたのは誰でしょうか?
1.豊臣秀吉
2.小早川秀秋
3.石田三成
4.蜂須賀小六
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1.豊臣秀吉
秀吉は当時まだ木下藤吉郎と名乗っていて、信長の家臣としては新人でした。
この信長の命令を見事にやりとげたことで信長に認められ、出世していくことになります。
このことは「墨俣一夜城」として有名ですが、秀吉にはもう一つ「石垣山一夜城」という同じように一晩で城を建てたという話があります。
2つの話は実は、「敵から見える面だけを建てて裏で時間をかけて建築を進めていたらしいこと」や「城と言いつつ砦のような簡単な建物だったのかもしれない」といったような話もあり、本当はどうだったのかわかりませんが、秀吉が優秀な軍師だったことは事実のようです。
第20問
「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」は信長、「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」は家康の性格を表しています。
では、秀吉の川柳の「鳴かぬなら○○○○○ホトトギス」の○の中に入るのはどの言葉でしょうか?
1.鳴くのを探そう
2.鳴かせてみよう
3.いっしょに鳴こう
4.それでいいのだ
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2.鳴かせてみよう
この川柳では、信長は短期で激しい性格、家康は我慢強い性格、秀吉は工夫をこらして考える性格であったと言われています。
しかし実際の史実を見ると、必ずしもこのような性格ではなかったのではないかと考えられています。

博士
今回のクイズ問題は以上じゃ!君は何問解けたかな?
このサイトではいろんな脳トレクイズを紹介しているから、ぜひ他のクイズにも挑戦してみるのじゃ!