博士
今回は明治時代おもしろ雑学クイズを紹介するぞ!全問正解目指して頑張るのじゃ。
ちなみに、明治時代は1868年〜1912年まで、45年間も続いたぞぉ!日本が大きく発展した時代なのじゃ。
【明治時代おもしろ雑学クイズ】簡単&難しい!歴史を学べる3択問題【前半10問】
博士
まずは10問出題するぞぉ!選択肢の中から正しいものを一つ選ぶのじゃ。
第1問
明治時代の自転車の価格は、現在で言えば何円くらいでしょうか?
1.約6万円
2.約50万円
3.約400万円
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3.約400万円
明治30年(1897年)頃、アメリカ製の自転車が200~250円ほどで売られていました。
現在の価格に換算すると約400万円であり、かなり高価な品であったことが分かります。
第2問
明治時代、女性たちの間で写真を撮る際に流行したポーズはなんでしょうか?
1.ピースサイン
2.袖で手を隠す
3.両手で頬を触る
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2.袖で手を隠す
当時の美的感覚として「手が小さい女性が綺麗である」というものがありました。
また、「写真に手が写ると手が腫れる」という迷信もあったようです。
それらの理由から、明治時代の女性は手を袖で隠して写真に写ることが多くありました。
第3問
明治時代、「アイス」と呼ばれていたのはどんな人たちでしょうか?
1.高利貸
2.警察官
3.料理人
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1.高利貸
「高利貸(こうりがし)」は法外な金利でお金を貸す人のことであり、分かりやすく言えば「闇金」のような存在です。
アイスクリームが「氷菓子(こおりがし)」と呼ばれていたことから、言葉遊びのような感覚で「高利貸」のことを「アイス」と呼ぶようになりました。
明治20年代頃から使われている表現でしたが、1897年(明治30年)から1902年(明治35年)まで読売新聞で掲載された尾崎紅葉の小説「金色夜叉」の作中でその表現が用いられたことで更に広まって行ったとされています。
第4問
次のうち、明治時代の学校教育にも取り入れられていたものは何でしょうか?
1.折り紙
2.メンコ
3.お手玉
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1.折り紙
明治時代の幼稚園や小学校では、教育の一環として折り紙の授業が行われていました。
当時の折り紙は儀礼に用いられるものでもあったことから、高等女学校や女子師範学校では作法として「儀礼折り紙」を教えていました。
第5問
明治時代に「文明開化の七つ道具」と呼ばれたものがあり、その中に1つだけ食べ物が入っていました。
それはなんでしょうか?
1.カステラ
2.パフェ
3.あんパン
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3.あんパン
「文明開化の七つ道具」は資料によって若干異なることもあるようですが一般的には…
郵便・瓦斯灯・蒸気船・写真・軽気球・陸蒸気、そして7つ目としてあんパンが挙げられます。
あんパンは明治時代に誕生し、明治天皇に献上された品でもありました。
第6問
「( )頭をたたいてみれば、文明開化の音がする」。
この空白に当てはまる言葉はなんでしょうか?
1.坊主
2.散切り
3.ちょんまげ
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2.散切り
「散切り頭をたたいてみれば、文明開化の音がする」とは、明治時代初期に流行った歌の一節です。
歴史の教科書にも載っているため、見覚えがある人も多いのではないでしょうか。
「散切り頭」とは、ちょんまげを辞めて後ろ髪を短く切り揃えた髪形を指します。
1871年(明治4年)に明治政府は「散髪脱刀令(さんぱつだっとうれい)」を布告しました。これは「ちょんまげを結わなくても良いし、帯刀する必要もない」という内容でした。
それをきっかけに「散切り頭」が徐々に一般的に広がっていきました。
第7問
明治時代、洋犬(西洋の犬)は何と呼ばれていたでしょうか?
1.カメ
2.ツル
3.イカ
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1.カメ
明治時代、洋犬は「カメ」と呼ばれていました。
外国人が犬を呼ぶ「come」という言葉が当時の日本人には「カメ」と聞こえたことから来ていると言われています。
犬の名前の定番が「ポチ」になったのも丁度その頃からです。
これも英語で「まだら」を意味する「patch(パッチ)」・フランス語で「小さい」を意味する「petit(プチ)」などを聞き間違えたのがきっかけと言われています。
それまでは「シロ」「クロ」「ブチ」などが犬の名前の定番でした。
第8問
明治時代の人たちは、最初は牛乳に対して偏見を持っていました。
それはどんなものだと言われているでしょうか?
1.牛乳を飲むと足が遅くなる
2.牛乳を飲むと力仕事以外ができなくなる
3.赤ちゃんに牛乳を飲ませると2足歩行できなくなる
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3.赤ちゃんに牛乳を飲ませると2足歩行できなくなる
牛乳が普及し始めたのは1871年(明治4年)頃のことです。
「赤ちゃんに飲ませると健康に育つ」という売り文句でしたが、当時はまだ牛乳の栄養に関する知識までは普及していませんでした。
「牛乳=牛の赤ちゃんだけが飲むもの」という考えが強かったのです。
そのため「牛乳を飲んで育った赤ちゃんは成長しても2足歩行ができず、牛みたいに四つん這いで歩くようになる」といった偏見を持たれてしまっていました。
第9問
夏目漱石は猫を飼っていました。
その猫の名前はなんでしょうか?
1.シロ
2.タマ
3.猫
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3.猫
夏目漱石の代表作の1つ「吾輩は猫である」の一文に、「吾輩は猫である。名前は、まだ無い。」というものがあります。
その猫は、夏目漱石が実際に飼っていた猫がモデルだと言われています。
何度追い返しても自宅に出入りするようになった野良猫を飼うことにした彼ですが、特に名前を付けることはなく「猫」と呼んでいました。
だから「名前は、まだ無い」ということなのでしょう。
第10問
明治時代初期には黒い郵便ポストが使われていましたが、途中から赤色に変わりました。
その理由はなんでしょうか?
1.黒い塗料が高額だから
2.黒だと夜間見づらいから
3.喪服を連想させて縁起が悪いから
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2.黒だと夜間見づらいから
明治時代、最初に作られたポストは色が塗られていない木の箱でした。その頃は「書状集箱」と呼ばれていました。
明治5年頃になると、まだ木製ではありますが黒く塗られた郵便ポストが登場します。
しかし、夜になると黒だと見づらいことから明治30年代になるとイギリスの郵便ポストを参考にして赤くて丸みのある鉄製の郵便ポストが作られました。
【明治時代おもしろ雑学クイズ】簡単&難しい!歴史を学べる3択問題【後半10問】
博士
前半10問はどうじゃったかのう?まだ物足りないという人は次の10問も挑戦してみるのじゃ!
第11問
「一度でも我に頭を下げさせし人みな死ねといのりてしこと」という短歌を詠んだのは誰でしょうか?
1.石川啄木
2.夏目漱石
3.福沢諭吉
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1.石川啄木
一度でも我に頭を下げさせし人みな死ねといのりてしこと」という短歌を詠んだのは、石川啄木です。
現代語訳すると「一度でも私に頭を下げさせた人は、みんな死んでしまえと思った」というとんでもないものになっています。
第12問
「西洋にはピアノを弾きながら小説の構想を練る作家がいる」という話を耳にした江戸川乱歩は、他の楽器で真似をしようとしました。
その楽器とはなんでしょうか?
1.和太鼓
2.三味線
3.尺八
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2.三味線
西洋の作家の真似をして、自分は三味線を弾きながら構想を練ろうと考えた江戸川乱歩でしたが、現実はそう甘くはありませんでした。
三味線の稽古を始めた結果、三味線の腕が上達しただけで構想は浮かんでこなかったそうです。
第13問
1906年(明治39年)、日本独自のスケート靴が登場しました。
ベースとなった履物はなんでしょうか?
1.草鞋(わらじ)
2.下駄
3.革靴
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2.下駄
1906年(明治39年)に長野県下諏訪町の飾り職人だった河西準乃助が、海外のスケート靴を参考にして下駄の底に鉄製の刃を付けた「下駄スケート」を開発しました。
下駄スケートは、昭和30年代頃までは実際に使われていました。
第14問
明治時代、「コレラ」の感染を防ぐ効果があると信じられていた飲み物はなんでしょうか?
1.オレンジジュース
2.抹茶
3.ラムネ
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3.ラムネ
明治時代、コレラが大流行し多くの人が命を落としました。
そんな中、新聞に「炭酸飲料を飲むと殺菌効果があるのでコレラにかからない」という旨の記事が掲載されました。
多くの人々が藁にも縋る思いでラムネを求めるようになり、製造が間に合わない程だったと言われています。
第15問
1885年(明治18年)、日本銀行が初の「日本銀行券」である「拾円券(10円券)」を発行しました。
描かれていた絵として正しいものはどれでしょうか?
1.大黒天
2.恵比寿
3.毘沙門天
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1.大黒天
「拾円券(10円券)」に描かれていたのは、商売の神様とされる大黒天の絵でした。
そのことから「大黒札」とも呼ばれていました。
第16問
明治時代の日本人の主食は何だったでしょうか?
1.白米
2.麦ご飯
3.食パン
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2.麦ご飯
明治時代の白米は高級品であり、庶民は殆ど口にすることができませんでした。
当時の庶民は基本的に麦ご飯を食べて生活していました。
西洋の文化が入って来たとは言え、まだこの頃にはパンを主食にする文化は定着していませんでした。
第17問
現在「177」と言えば天気予報の電話番号ですが、明治時代の「177」は誰の電話番号だったでしょうか?
1.滝廉太郎
2.大隈重信
3.勝海舟
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2.大隈重信
1890年(明治23年)、日本で電話が使われるようになりました。
当時の電話番号は申し込み順に割り振られるというものであり、1番は東京府庁(当時は東京都ではなく、東京府だった)でした。
そして、177番は早稲田大学の創始者であり内閣総理大臣も務めた大隈重信の電話番号でした。
第18問
明治時代、日本で初めて拳銃の所持が認められた意外な職業とはなんでしょうか?
1.郵便配達員
2.開業医
3.弁護士
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1.郵便配達員
強盗被害が多い時代であったことから、1873年(明治6年)に「短銃取扱規則」という法律で郵便配達員が銃を一丁だけ所持することが認められました。
その後は現金書留が増えたことで、より一層拳銃を所持する必要性が高まっていきました。
ちなみに…1949年(昭和24年)までは郵便配達員が拳銃を所持していました。
そして、警察の剣銃所持が認められたのは1923年(大正12年)からでした。
第19問
明治時代に美男子コンテストが開催されたことがあります。
その主催となったのはどんな会社だったでしょうか?
1.銀行
2.百貨店
3.新聞社
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3.新聞社
1910年(明治43年)、毎日電報(現:毎日新聞)がいわゆる美男子コンテストを開催しました。
1905年(明治38年)に日露戦争に勝利したことから、海外に向けて「日本にはこんなに立派な男子がいるぞ!」とアピールする狙いがあったようです。
しかし、残念ながら明治時代の美男子コンテストはたった1回の開催で終わってしまいました。
第20問
大政奉還後の徳川慶喜が情熱を注いだ趣味とはなんでしょうか?
1.釣り
2.写真撮影
3.陶芸
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2.写真撮影
大政奉還後、一時は貴族院議員を務めた徳川慶喜ですが、任期を終えてからは様々な趣味に没頭していました。
ただ趣味に興じるだけではなく武芸の訓練も欠かさず行い、人柄も良かったことから人々に慕われていたそうです。
そんな彼が特に情熱を注いだ趣味こそが写真撮影であり、それらの写真の一部は今も残っています。
ちなみに…慶喜の曾孫である徳川慶朝さんはプロのカメラマンとして活躍した人物でした。
博士
今回のクイズ問題は以上じゃ!君は何問解けたかな?
このサイトではいろんな脳トレクイズを紹介しているから、ぜひ他のクイズにも挑戦してみるのじゃ!